【スペイン編】古都クエンカにて、プロのばあちゃんと暮らした日々①

posted in: Column | 0

出会いに乾杯!ワイン と生ハム

大学2年生の夏休み、私は語学研修プログラムでスペインのクエンカという町に行った。

プロフィールの職業欄に「Abuelita profesional(プロのばあちゃん)」と書いてしまうお茶目なおばあちゃん、イサベルと暮らした二週間は、それまでの私の日常をがらりと塗り替えてしまうような、不思議な魅力に溢れた日々だった。

日本を出発しドーハで乗り換え、マドリードに到着するまでに出た機内食は計4回。

ここぞとばかりに日頃は観ないベタベタな恋愛映画に号泣したりモーツァルトを聴いて少しでもIQを上げようと足掻いてみたりしたものの、いたずらに感情が揺さぶられるばかりで消化は一向に捗らない。

しかも私は出発前に「これが最後の和食になるやもしれぬ!」と店に飛び込み天ぷらそばをかっ込んでいたので、実は飛行機に乗る前からかなり満腹だったのだ。

常に腹八分目あたりまで食べものが詰まっているにもかかわらず、機内食の匂いを感知すると機内でしか食べられない特別感に負けて、つい完食してしまう。
普通のカフェで出てきたらそれほど感動するような味でもないのに、ひんやりした固いパンも甘酸っぱいソースがかかった謎のサラダも無性においしく感じられる。
機内食だけの特権だ。

そんな状態だったから、夕方クエンカに到着しバスを降りてもいまだ空腹の気配はゼロ。
部屋着いたら一刻も早く布団で身体を休めたいと、ただそれだけを願っていた。

バスを降りると、それぞれのホストファミリーが私たちの名前を書いた紙を手に集まっている。
私を迎えに来てくれたのはイサベルの娘夫婦、ロサとホアンホだった。
彼らの車に乗り、イサベルの家へ向かう。

「¡Hola señorita! ☆♪*★……(“やあ嬢ちゃん!”…以降早口すぎて聞き取れず)」

スーツケースを持ってくれたホアンホに続いて家に入ると、満面の笑みをたたえた「プロのばあちゃん」ことイサベルにいきなり抱きしめられた。
互いの頬を合わせてチュチュッと音を立てる挨拶を交わし、彼女と見つめ合う。

水色の瞳にオレンジ色の短髪。
いかにも「外国のおばあちゃん」という感じの、ふくふくとした笑顔。

このおばあちゃんとの日々は楽しいに違いない。そう確信して、安心した。

イサベルは私の手荷物をすべてソファに放ると、家の中を案内してくれた。

「ここがトイレ」

「ここは物置」

「これは私の部屋」

「そしてこれがあなたの部屋!」

ひと通りお家紹介が済んだところで、イサベルは「じゃあ行こうか」とでも言うように外をしゃくった。

するとそれまで黙っていた娘のロサが立ち上がり、鋭く何事か言った。

すかさず大きな身振りで反論するイサベル。どちらも早口すぎるうえ、私自身のスペイン語力も心もとない。

「Yuriko(ジュリコって聞こえるけど私のことだよな…)」

「Japón (日本)」

「cansada(疲れた)」

なけなしの語彙力をかき集めて推理するに、ロサは「ユリコは疲れているだろうから、今日はゆっくり休ませてあげて」的なことを強く訴えてくれているらしい。

それに対してイサベルは「せっかく来たのだから、散歩がてら夕食に連れて行きたい」と頑張っているようだ。

オロオロと立ちすくむ私を挟んで髪を振り乱して議論する二人。

「けんかをやめて〜二人を止めて〜私のために争わないで〜♪」

と、思わず歌い出したくなるような状況だ。

これまで性悪ぶりっ子の歌だと苦々しく思っていたけれど、まさかホームステイ先で彼女と同じ境遇になろうとは。

しかも「二人を止めて」と助けを求められる人物が近くにいる竹内まりやとは異なり、私に助けを差し伸べてくれる人はいない。
ロサの夫のホアンホは、二人に構わず水飲んでるし。

なすすべもなく女たちの諍いを見守っていたら、不意にロサがキッとこちらを向いて
「Are you tired?  Are you hungry?(疲れてる?お腹減ってる?)」
と英語で聞いてきた。

疲れてます! お腹は減ってません!

そう即答したい気持ちは山々だったがこれから一緒に暮らすのはイサベルだし、ここは彼女の顔を立てるべきかな…と忖度し、あまり疲れていないからぜひ外を歩いてみたいと拙いスペイン語で答えた。

はしゃぐイサベルと一緒にロサ夫婦を階下まで見送り、そのままアパート周辺を歩く。

イサベルはゆっくり、はっきりした発音でいろいろと話しかけてくれる。

「¿Cómo se dice “buenos días” en japonés?(日本語で「おはよう」ってなんていうの?)」

「Se dice ……“Ohayo”とか」

と、つい癖で「とか」と付けてしまって、慌てた。

イサベルはすでに「オハヨウトカ」と、呪文のように口の中で転がしている。

「Perdón(ごめんなさい), no オハヨウトカ, sólo “Ohayo”」と説明すると、「ソローハヨー?」と首を傾げている。

違う。違うの。

私が早々に言語の壁にぶち当たり呆然としているうちに、イサベルの目当ての店に着いたらしい。
古めかしい扉を開けてずんずん店に入っていく彼女の後ろを、おっかなびっくりついていく。

カウンターから出てきた店員さんはどうやらイサベルの知り合いらしい。
イサベルは時々私を振り返りながら彼と少し話すと、大きなテレビの真ん前の席にでんと腰掛けた。

そしてメニューを一瞥したのち、どうぞとばかりにこちらに滑らせ、にこりと微笑む。

渡されたメニューを覗いて、ギョッとする。
手書きの文字はかなり癖の強い筆記体だったのだ。
ほぼ判読不能。どうしよう。

私の目が点になっていることに気づいた店員さんが、メニューをゆっくりと音読してくれた。

すると今度は己の単語力の貧弱さがあらわに。

「焼き◯◯」や「トマト味の△△」と言われても、どんな料理なのかまったく見当もつかない。

「Esto es jamón serrano.(これは生ハム)」

「ハモンセラーノ、ポルファボール(生ハムください)」

ようやく出てきた知っている単語にすかさず飛びつく。

「¿Algo más?(ほかに注文は?)」

もう、無理。

半べそでイサベルに助けを求めると、それまで静観していたイサベルはテキパキともう何品か頼んでくれた。

すぐに赤ワインとTortilla de patatas (じゃがいも入りオムレツ)が運ばれてくる。
大きなグラスに注がれた深い赤が、薄暗い店内の照明を受けてきらりと光る。

「¡salud!(乾杯!)」

イサベルと二人、ワイングラスをかちりと合わせる。

どっしりとしていて、喉を通るとびりびり渋い。

よくわからないままにグラスを回していたら、目をらんらんと輝かせたイサベルがカウンターを指差した。見ると、骨つきの生ハムがナイフで削られているところだった。

巨大な肉の塊から剥ぎ取られてきた生ハムが、私たちの席へとやってくる。
日本の生ハムみたいな、お皿が透けて見えるような繊細な雰囲気ではない。

干し肉のような、硬く、見た目通りのワイルドな味わい。

自宅にて撮影。生ハムとゆで卵のぬか漬け(自宅にて)
スーパーに並ぶ生ハム(クエンカにて)

おいしさを伝える語彙がとっさに出てこなかったのでめっちゃ笑顔でぎゅっと頰を押さえたら、「¿No es rico?(おいしいでしょう?)」とイサベルは上機嫌にワインを掲げてウインクした。

と、突然店内で大声が上がった。
店のテレビに映し出されている闘牛で、大きな動きがあったらしい。

見ると、飾りのついた白いパリッとした服を着た華奢な青年といかにも強そうな黒い牛が向かい合っていた。

しばらく牛とにらみ合っていた青年は意を決して剣を構え足を踏み出したが、それをいなした牛は角で彼の上半身を引っ掛け、軽々と投げ上げた。
綺麗な弧を描いて飛んだ彼と、興奮して走り回る牛。
すぐに救援隊風の手に銛を持った少年たちが駆けつけ、青年をかばうように牛に対峙する。

痛さにのたうつ青年に同情する一方、スローモーションで再生される角に跳ね上げられる彼があんまり綺麗で、目が離せなくなってしまった。

スペインの牛のポストカード(自宅にて)

私たちのテーブルの周りにはいつのまにかお客さんたちが飲みもの片手に集まり、息を殺してテレビを凝視していた。

命がけの攻防をぎらぎらと見守る観客たちは、少年たちや牛の一挙一動に瞬時に反応する。

うめき声に歓声、小さく息をのむ音。

まるで一つの生きものになってしまったかのように、彼らは同じ種類の声を出し、息を吸い、吐いていた。
そしていつしか私も彼らの一部となって、口を覆ったり目を見開いたりしながら食い入るように画面を見詰めていたのだった。

不意にイサベルに肩を叩かれる。
時計を見ると、かなり遅い時間になっていた。

翌日は朝から学校に行き、学力テストなどを受けなくてはならない。

家に帰り、部屋で日記を書く。

日本にいた頃は闘牛なんて野蛮な競技、絶対に観たくないと思っていたけれど、あんなにも興奮するものだったとは。
観客たちと緊張と弛緩を共有することが、あんなにも心地よいものだったとは。

目を閉じると力強く場内を駆けていた牛の姿がまぶたに蘇る。あの牛が斃れたら、食肉に回されるのだろうか。
きっと野性味に溢れた、肉々しい味なんだろうなぁ。

ワイン、生ハム、闘牛。

まだ初日なのにずいぶんとスペインを満喫してしまった。
明日はどんなことが待っているのだろう。
「ワクワクして眠れないかも」と日記を結んでおきながら、ベッドに入るや否や私は深い眠りへと落ちていった。